数学アラカルト・第2回 暦の話(その2)
- 暦について歴史的に考える
物事はすべからく歴史的な背景と流れの中で見ないと、何か間違った物に見える、ということを、私はずっと学んできたように思います。
暦という物も、決して初めから私たちが今見るような形のものではなかったことは当然ですが、ではどのようにしてこういうものが生まれ、そして組織されてきたか、ということを考えてみたいと思います。
もちろん記録に残っている事柄は大変少なく、またこういうものが生まれてくることと、文字の発生というものが実は密接な関係をもっているため、何か突然高度な暦や文字体系が生まれてきたように感じられるわけですが。
中国を例にとった場合、白川静さんの研究などから漢字というものがもともと祭祀に関わるもので、儀式の際に文字を以て参加する者がつまり史、つまり後の史官であったことが知られています。従って暦というものも単に天体観測とかいうものではなく、権力機構が生まれ発展してくるのと軌を一にして形成されてきた物と言えるでしょう。
もちろん月が周期的に満ち欠けすることや四季が巡って繰り返すことはわかっていたでしょうが、それをどのようにして「測って」いたか。
「数える」と言うこと、数の体系がはじめからあったわけではありません。また第1回のところで書いたひらせ隆郎さんの著書にあるのですが、春秋期以前の暦というものは実際に月を観測してそれに従ってやっていたということが書かれています。つまり、月が細くなってやがて見えなくなる。そしてやっと新しい月が少しだけ見えるようになる。今月の始まりだ、という感じ方。これが大体二ないし三日月(朏)で、ここで朔日(ついたち)になる、というもの。
明らかに数体系や観測の結果の天文体系がまだ未完成な状態を反映した暦法です。
もっともこの当時実は月が約29.5日で一巡することが知られていなかった、ということを言っているのではありません。
暦というのはこの時代では宗教的・政治的な制度の一つですから、より合理的だからとか観測が精密になったからなどと言う理由で簡単に変えられるものではなかったであろうし、また観測と言うものがいわば原理より経験や一定の手順を重視したものであったであろうことは、ほとんど疑問の余地が無いでしょう。ですからもっと精密な観測があったとしても(戦国期にかなりそのあたり制度が変わりますから、観測事実は結構いろいろ知られていたでしょう)、暦がいきなり精密になるとは限らないわけです。(例えばグレゴリオ暦の採用に関する経緯)
もちろん今よりずっと、夜月が明るいか、また海洋民だったら、潮の干満というようなことが生活に密着したものだったわけですが、暦の制度となるとこれは天の運行を言うわけで、つまり天が地上に力やメッセージを送っている、それを代行するのが権力なわけです。でも月や星が口をきくわけではないので、そのメッセージは神官やそれに類する者によって解釈されることになります。それが政治であり、また天の子たる者の仕事だ、という思想が生み出されるわけですね。
生活の必要から生まれた天象に関する知織が、やがて政治制度と一体になってゆく中で生まれたものが暦だと言ってもいいでしょう。
さて、暦は天の声を表したものである、ということは、暦を作るのは支配権力、またはその取り巻きや子分達だということです。たとえばユリウス暦を定めたのは古代ローマの権力者ユリウス・カエサル(本人が天体観測して決めたとも思われないので、実際はそのスタッフが提案して、カエサルが公布した、ということでしょう)ですし、中国では権力者が変わると暦を変える、というのが頻繁に行われます。もっとも体系全部を入れ替えるのは困難ですから、元号の発明とともに、改元という行為で「時代を変える」という考えが生まれてくるのですが。
- 暦の正確さという問題
暦にしたがって暮らす、ということを考えてみましょう。現在の我々もまた暦を無視して生活しているわけではありませんね。会社に勤務していれば、給料は月給だったり、あるいは年2回のボーナス、とか一定の日付で支払われるシステムです。また会計年度と言うものがあって、たとえば株式会社なら年一回決算報告の株主総会を開かなければなりませんし、また政治も年度単位で動いています。もほや暦そのものが恣意的に返られることはありそうもないです(年号の制度とかは別ですが)。というのは天体の運行が正確に測られ、物理定数として(正確には変動する近似値なのですが)ある以上、1年を360日ちょうどにする、とかいったことをこれからやるのはまず暴挙でしかないでしょう。
ここで問題は歴代の暦がどのくらい正確であったのか、またそれはどのような事実によって裏付けられるか、ということです。
ちなみに現在日本で採用されているのは、グレゴリオ暦です。(正確に言うとグレゴリオ暦を暦に採用している、というべきかもしれません)
これは1年を365.2425日であるとするものですが、実際の1年は現在では365.2422日であるとされています。この誤差は1年当たり約26秒弱で、約3300年で1日誤差が出る、といった数字です。グレゴリオ暦が制定されたのは1582年なので、現在で3時間ほどずれているはずです。もっともこれはグレゴリオ暦制定当時からずっと地球の自転周期が同じであるとした場合ですし、また3時間ずれているのはいわば太陽に対する地球の位置なので、たとえば正午のはずなのに日が傾いている、とかいうことではありません。このあたり、暦と観測事実を混同するとおかしな議論になってしまいます。
これと似た問題に「マヤの暦」の話があります。つまりある説に基づくある計算によると、マヤの暦の1年は365.242128日であり、グレゴリオ暦より正確である、という話。で、このことからマヤには宇宙人の影響が・・・とか、マヤ文明は超精神文明であったとか主張する人もいるようです。まあそうまで極端な意見はさておいても、マヤが高度な観測技術を持った文明であったと信じている人は、学者の中にもいるようですが・・・。
これの問題点は二つあります。一つは、地球の回転は大まかに言えばだんだん遅くなっているということ。また、地球の軌道も一定の所をずっと回っているわけではないのでマヤ暦が完成した頃の1年がどのくらいの長さかというのは微妙です。地球の回転が今より早く、かつ公転周期が同じなら(これも単純にそう言い切れないのですが)1年の日数の数字は少し増えます。
ですから、暦制定当時の定数がわからないと、当時の観測の正確さは保証されないということです。
第二に、これは暦の解釈に基づく数字である、ということです。つまりマヤにおいては閏年を用いていた形跡がなく、1年と言う概念が何種類もあったようで、260日周期の暦と365日周期の暦、さらに長期暦というのがあってその中間単位の中に20日かける18、つまり360日というのがあったことが知られているわけですが、この長期暦で書かれた文章の中に月齢が出てくること、それと放射性炭素による測定を合わせて、暦の起点を紀元前3114年と考え、それを元に計算した、というのですが・・・・これって、いわゆる形成期より前で、一方マヤで最も古いとされている石碑は紀元前1世紀頃のものです。もっともこの石碑はすでに数字の0を含んでいて、そういう意味でなかなか高度な数学があったことは確かですが、少なくとも紀元前3000年当時の記録は残っていないようです。つまりこの正確な暦なるものは、後世の記録からある仮定に基づいて計算した数字なんです。ところが、中国の例など見ると、月齢というものがちゃんと測られるまでに一定の歴史的期間がかかっているようですね。つまるところこれは暦であって、観測事実ではないので、やはりマヤでは正確な観測が存在した、とか何らかの方法で正確な1年の長さを彼らが知っていた、という証拠にはならないようです。まあ出土物がたよりなので、絶対にありえない、と断言するのことは出来ませんけどね。
ちなみにこの問題について調査しようとしたらネット上のマヤ暦関係のサイトはほとんどがオカルト系のサイトでした。困ったものです。
いずれにせよ、暦と言うものはつまり制度であって、それを決めているのはなんらかの権力組織であると言うことです。
ちょっと面白いのはたとえば現在の日本で新春とか初春とかいう言葉はつまりお正月につかわれる言葉ですね。これを不思議に思った方は結構あるんじゃないでしょうか。私も少年時代はかなり不思議に思いました。だってお正月はどう考えたって冬で春ではないわけで、新年、というのはわかるけど新春というのはわからない。
結局これは立春を含む月が本来の正月なわけです。日本の旧暦ですね。ところが立春というのは今で言うと大体2月のはじめなのでこれを含む月、ということは一月近くずれることになります。
実はこどもの日になっている端午の節句や雛祭りの桃の節句も本来はこの旧暦で考えるべきなのです。お盆とかもそうです。ですから何月、という時の季節感は江戸時代以前と現在ではかなりずれているわけですね。
そういえば年末によく「時は元禄・・・」という例の忠臣蔵をテレビでよくやってますが、あれも12月15日の討ち入り、というのは今の暦では年が明けてしまって様になりません。ついでながら、当時の感覚では、15日は15日の夜明けとともに始まるので、この午前4時頃の討ち入りは14日の夜というふうに認識されていたようです。
- 正月について
さて、普通に考えれば、1年は1月に始まって、12月ないし閏月がある暦だと13月で終わる、ということになるはずですが、なぜか中国ではそうではない暦が流通していたといいます。
不可解にも十月が年頭となる暦があって、せんぎょく暦、と名付けられています。あるいは夏正といって冬至月の翌々月が正月とか。
率直に言って冬至の月とその前後1ヶ月、あるいは立春とか春分を基準にその前後1ヶ月とかいうのはわかる話です。歳神(あるいは年神)というのがあるように、宗教的な考えですが毎年新しい年が生まれてくるような感じ方、というものがあるわけで、それはこれから日が長くなっていく境目としての冬至か、あるいは春の季節の天文的象徴としての立春や春分を年の初めにもってくるのは説得力があります。
思うに、初めはそういう物を観測してから、新年を迎えたのでしょう。ある程度観測を積み重ねれば大体の予測は出来るようになるでしょう。一度決めてしまえば割と簡単なのでたとえばこの柱の影がこういうふうになったら冬至、とかいうふうに決めるわけです。
実際南米のどこやらの遺跡で、特定の日になると階段の横に彫ってある竜がくっきりと全身をあらわすようなのをテレビでやってました。
またストーンヘンジのなかにもそういう天文的祭儀のしかけがある、という話が、「天文考古学入門」という本に書いてありました。(今となっては少々古い本ですが)
古代の人々がかなり熱心に天体観測をやっていたのは間違いないようです。それは宗教的なものでもあり、また実用的なものでもありました。というより、そのころは宗教的であることと実用的ということは別のものではなかったわけです。ただ、宗教が権威や権力と結びついていく中で矛盾をはらんでいくのは確かです。しかし、古代の人々にとって非宗教的思考、というものは殆どあり得なかったので、そういう矛盾の表現や、矛盾に対する批判もまた宗教的な、いわば宗教改革的な様相を帯びることになるのですが。
こうして、天象観測、そして農業を中心とする文明の中で新年、と言う観念も発生するわけですが、しかし先にも述べたようにその基準になりそうな日、というのは幾種類も考えられます。そして事実幾種類もの暦が生まれてくるわけですが、暦というものを決めるのは結局その時々の権力(とそれに付随する観測役)なわけです。
中国ではそのため不思議なことが起こったのですが・・・。
やはりこれも先述のひらせさんの著書にあるのですが、中国で現在はっきり王朝があったとされている中で最も古いのは殷王朝(というのは他称で自らは商、といっていたようですが)で、そのあとに周王朝、そして分裂の時代を経て秦漢帝国へと続く、ということになっています。実は分裂時代、といいますが、周王朝がどれだけ広い地域に支配権を及ぼしていたのか、またその強制力の程度を考えると、「中国の統一」というのを最初にやったのは実は秦なのではないか、という考えも成り立つような気がします。この点については歴史のカテゴリーで書くことにしましょう。
要はこの秦による統一国家の前は中国はいくつかの国が勢力を競っていた状態であり、その中で、夏ー殷ー周ー分裂時代、という歴史観が大体この「分裂時代」に生まれていた、ということです。
つまり、統一王朝である夏があって、それが衰えた際に殷王朝がとって代わり、その殷が衰えた際に周王朝がとって代わった。今やその周王朝も衰えたが、それにとって代わるのはどのような王朝か、という観点です。
実際のところ夏王朝についてはどこにどのくらいの規模で存在したのか、そもそも殷はこれにとって代わったのかなどはまるで解りませんが、ともかくもこの時代そういう考え方が支配的になった、そしてそこで来るべき王朝は夏王朝の再来でなければならない、という考えが出てきたわけです。
何もそんな古いものを持ち出さなくとも、全く新しい時代で良いではないかと思うのですが、どうも宗教的な世界観では古いものに何か有難みがあるのですね。
それで、夏王朝の制度というのは何か、というときに夏正、殷正、周正、というものが出てきました。
つまり周正は冬至月が正月、殷正では冬至の翌月が正月、夏正では冬至翌々月が正月である、という考えがでっちあげられました。実際は周王朝も、ましてその前の諸王朝もこんな暦は使っていなくて、第1回で述べた「観象授時」の暦というものだったわけですが、それを「こういう正統の暦があったのを使わなくなって(そんな事実はありませんが)周王朝も衰えたのだ、という「理論」がでっちあげられました。もちろんその目的は「うちの国の使っている暦こそ正統のもの」という事を言いたいわけです。
その後、漢の時代にそういういきさつが失われて、これら正統なる暦が実在のものである、と言う観点から史記なども編纂されたようです。