自由なうたとしてのフォークソング


 音楽をやっていくうえで、結構重要なことだが、著作権の問題がある。実は私、先日、野田淳子さんというプロのフォーク歌手のコンサートのお手伝いをしていたのだが、会場で結構みんな録音などしていた。まあ、それをとがめるような種類の歌い手・音楽ではなかったので別段問題にもならなかったわけであるが、たとえばその録音をこのWebページに載せたとしたらどうだろうか。それはやはり著作権および著作隣接権などに触れる行為である。少なくとも何らかの許可をうけなければならないであろう。一般にプロの方とつきあっていくときにこのことは常に留意しておくべきことである。
 さて、問題はここからである。フォークソングというものがしばしばこの著作権というものと整合しない、むしろそれに反対するような、というか、それとは別の流れを歩んできたように思われるからである。
その前にここでいうフォークソングというものがどういうものかを明らかにしなければならないであろう。なぜなら通常フォークソングという名で、日本において呼ばれている音楽は、ここでいうフォークソングとはいささか違ったものであるからである。そのためにはフォークソングの歴史をふりかえってみなければならない。日本においてああいった音楽がフォークなどと呼ばれるに至ったいきさつというものがあるからである。
 もともとフォークソングというのは民謡という意味である。とくにアメリカ民謡という事になる。だからだれがはじめたとか、だれがつくったというのはあまり意味が無いしまたわかりもしないというものであった。これはもともと民謡というものが生きたくらしのなかのうたであるかぎりはそういうものである。たとえば「五木の子守唄」。通常4番の歌詞が知られているのだが、じつはこのうた、類似の歌詞が何十も(もしかするともっと)あるのだそうである。口承口碑、つまり口伝えに伝わっていく文化、というものは皆そういうものだ。いつの頃からかうたいはじめられ、やがて替え歌がつくられてゆく。そしてまたそれが伝えられ変化してゆく。替え歌といったけれど、もともとうたというものは歴史的には替え歌から始まっているといわれている。小泉文夫さんによるともともとひとつの民族にはひとつのうたしかないとのこと。ひとつのうたに、新しい詩をのせてうたいついでゆくのがもともとのすがたなのだ、と。こういう世界で著作権がどうの、正しいうたいかたがどうの、というのはとても小賢しいことだ。にもかかわらず、わが日本国にはなんとか流民謡家元とかいうのが存在する。とくに全国の民謡を自分の流派ではこういう風にうたうのだときめてしまっているのだからおそれいる。まあそういう商売なのであろうがああいうのを民謡だといわれても困ってしまう。だってねぇ。民の字が泣くじゃないか。民衆が共同でつくってきたもの、民衆の共同の財産、民衆のくらしのなかで生きている歌、それ以外のもののどこが民謡なのさ?
 いまの私達の「フォークソング」にしてもその出発点ではそういうものだったと思われる。アメリカのフォークのはじめを誰から語るのかということは結構難しいことであるが、今の流れに直接つながる、といえばウッディ・ガスリーをあげるのが普通であろう。ウッドロウ・ウィルソン・ガスリーさんはもともとアメリカの民謡歌手である。「怒りと葡萄」の時代、大恐慌とニューディールの時代に放浪者であり、また民謡の歌い手であった彼はただしく民謡の世界の習慣どうりひたすら替え歌をつくり、またうたいひろげた人であった。彼のそうしたうたに共感した人たちのなかにピート・シーガーというもうひとりの偉大な歌い手・作者があらわれる。ピートは、フォークソングの民衆性を強調し、みんなのうたとして、運動としてひろげていったひとたちの一人でもある。この運動はやがて「赤狩り」などによってさまたげられつつも公民権運動、つまり黒人たちの真の参政権をもとめる運動とつながり、またヴェトナム戦争に反対する運動ともつながりながら、民主主義と国際連帯をかかげるうたへと発展してゆく。このころ、フォークソングはまたそれぞれの民族のうたというものをも重視し見据えていこうとする。アフリカ・中南米・アジア。きみたちのうたをきみたちのこころをうたうんだ、と。
 さて、運動には必ず亜流や逆流というものが生じる。また伝わっていく中での変質、というものも。フォークソングの場合、最初に伝えられたのがまぁアメリカでこういうようなうたが「はやってる」という流行のスタンスであったことがわが日本国でのフォークソングの亜流的性質を早くも形作ってしまった。まず最初にアメリカのプロ歌手のコピーバンドが林立したのである。しかしやがて「どうもそれちゃうねん。ほんまはもっとこういうもんやとおもうで。」という意見がでてきた。関西フォークという流れがそれである。民衆性を強調するそれはしかしながらなお民衆の暮らしの中で生きている歌にまではなりえなかった。啓蒙というような発想があったように思われる。つまりわかってない聴衆へのありがたいお説教。てやんでい、である。そういうことから甚だ日本的な亜流が生じた。歌謡曲のいちジャンルとしてのフォークである。このあいだ松山千春なる人物がこともあろうに「俺が死んだら日本のフォークはおわる」なぞとたわけたことをかいていたのであるが、仮に終わるとしてそれはこの亜流の死にすぎない。金儲けのための「フォーク」なんぞ死んでしまってもべつに惜しくはない。
 わたしたちは今自分たちの「フォークソング」を民衆のうた、うたの里運動のうたとよんでいる。そのうたはみんなのものなのである。どんどんうたわれひろげられることこそその目指すところなのであり、いちいち許可を取ったり登録したりするということにもともと馴染まない性質のうたなのである。この点でひとつ参考になるのではないか、と思うのがコンピュータソフトの世界でのGNUのやりかたである。あえてお金をもらうことを拒否はしないが金のためにものを作るのではない、みんなでつかうものをみんなでつくってゆこうではないか、という考え方。わたしたちの「フォークソング」はそういうものをめざす。