役に立たなきゃいけないか(その1)
私は教師稼業をしている。数学というものを教えているのだが、生徒たちがしばしばこう言うわけだ。「こんなん、何の役に立つの?」
そう、たしかに生徒たちが言ってるような意味では「役に立たない」のである。
が、問題はここからである。まず、第一に彼らの言う役に立つというのはどういう意味なのか。なぜならば、全く無意味なことを彼らは学ばされているわけでは無いのであるが、彼らの言うのは、たとえば買い物に行って使うのはせいぜい四則計算であってその程度の数学以外のものは普通の人間は使わないじゃないかということなのである。
さて、確かに使わないだろうね。だからどうだというのか。だからそれ以上の事を学ぶ必要など無いと?
もしそうならば、小学校の教育以外必要ではない、ということになる。本当のところ「日常に使う程度の数学」とはつまり「算数」にすぎない(まあ、その程度ならちゃんと出来るか、という点で実はかなりあやしいという問題もあるのだが)。これは何も数学に限った事ではない。日常生活に限って言うのなら、歴史も自然科学も哲学ももちろん英語だって「必要ない」。このあたりに日本の教育がかかえる深刻な問題があるのだが、とりあえずその問題は別の機会に論ずることにしよう。
ここで「役に立つ」ということを問題にしたいと思う。実際これら生徒たちの(無自覚にも一部の教師も)発言の中にある、「役に立つ」という観念は、非常に狭いものである。たとえば、科学的なものの見方。自然に対しても社会に対しても、この社会で流通している考え方というものは、およそ科学からは程遠い。何百年も前に解決済みのことを未だに平然と謎であるかのように語ったりするわけだ。こういうことにだまされないために、最低必要な、知識、またその流れ、というものはちゃんと存在するのであるが、困った事にそういった知識は決して単独に学べるものではない。むしろ一定の訓練と実践を通じてしか学びとることが困難なものである。つまり、ハウツー式に役に立つようなものではけっしてない、ということなのだが、これを称して、「役に立たない」といっているのである。
つまるところ、役に立つとはすぐ使えるということの言い直しにすぎない。何に使えるか?日常生活、及び仕事に、である。だから深く考えたり、自分なりに理解しようなどということは必要ないという考え方に通ずるものである。(よりによってこういう知識の欠如を是認することを「個性の尊重」などというのであるから開いた口がふさがらない。)
それは確かに、愚にもつかない事を延々と議論し続けるというのもどうかというものだが(いわゆるスコラ学)、必要というものをあまりに狭くしようとしすぎていないか。
逆説的だが学問というものは簡単に「役に立たない」からこそ意義があるともいえよう。そんな狭い実用性など考えていたら学問がねじまげられる。兵器開発でもしていたほうがよほど役に立ったりする?そういうことだ。
次に第二の問題。こういう「役に立つ」という思想の源泉がどこにあるかということである。日本の近代以降の歴史について考えてみると、「役に立つ」ことがもっとも強調されたのは。明治のいわゆる「富国強兵」ではないかとおもう。つまり、国民の存在意義を国を富ませ(実際には国ではなく国を支配するものを、である)、他民族を侵略できるほど強い軍事力をうみだす事と規定した、これこそ源泉ではないかと思うのである。むろん当時とちがっていくばくかの思想の自由はあるのが現代であるから、戦時中みたく「御国の為に」などとむいたいいかたはしないであろうが、学ぶことを日常に限り、役に立つことを追求する思想というものはつまるところそういうものではないか。
役に立たなきゃいけないか?
役に立つことだけがそんなにいいことか?
役に立たないからという理由をつけて大切なものを排除していないか?
一体誰にどのように役に立つというのか。
これらのことを考えないで、役に立つ、立たないというのをとりあえずやめませんか?
(その1、了)