その初期の歴史

 1956年2月14日のことであった。
その日ひとりの子供がこの世に出現したのである。もちろん、彼はそのことを 記憶していない。ただそのように伝えられている。
あまり丈夫とはいえない子供であった。時々ひきつけをおこす。病気がちの子と 思われた。
その分、家の中で本を読むのが好きな子であったが、必ずしもおとなしい子供であったとは言い難い。むしろ自分が正しいと信じこんだときは強情の限りであった。当時のことであったからそういうときには大抵押し入れにほうりこまれたものであるが、 そんなことで自説を撤回するような子供ではなかったのである。
延々と泣きながら抗議する子供のことを親達は今も語り草にする。
 なんとか無事に学校へ通うようになったのだが、問題はここからはじまる。
非常に協調性(当時も今以上にこれが重視された。ことに学校で)の無い子供であるという評価が彼についてまわったのであった。彼にしてみれば面白くも無い遊戯など どうして「みんながするから」しなきゃならないのか全く納得できなかったのである。おとなの説得は全く論理性を欠いていたので、彼が納得するはずはなかった。 もっとも6、7才の子供に論理的説明をしようとするおとな、というのが想像できれば、の話ではあるが。
 そういうわけで、彼は(少々迷惑な奴ではあるが、という評価も含めて)神童のごとき扱いをうけていたのである。よくも悪くも別扱い、というのが実像であろうか?
 親もこの辺いろいろ考えたらしい。ま、才能を伸ばしてやろう、というありがちな事もいくつか。結果、絵や、書道などの才能は期待できない事がわかった。あまりに器用さに欠けたのである。音楽だけは性に合ったらしい。楽器をあつかうのには器用さよりも他の要素が必要であったようで、親もまあこの辺かと思ってもいたようだ。 体の丈夫さも問題で、色々と手が打たれたようである。おかげでどうにか生きてきたといっても過言ではあるまい。
それやこれやで基本的性格が形成される。そうして彼は中学生になるのであった。

                     (つづく)