野村進「コリアン世界の旅」



 この日本国に生きているということを自分自身の中でどう位置づけるか、ということは結局民族とか文化だとか伝統だとかを無視して語れないものであると最近切実に思うようになった。そしてとりわけこの国の歴史。そこに居るのに見えなくされている人たちの歴史。

 かつて職場の同僚であったある老先生(私は教師稼業なのだが)は、口を開くといつもコリアンや中国やアジアの国の人たちの悪口ばかりいっていた。それにひきかえ、「日本は良い国や」「日本人にうまれて良かった」と繰り返すのであった。実のところ彼も行き場をなくしてやっとこの職場に来ていたのをたまたま私は知っていたのだが、繰り言のようにこういった差別(もちろん)発言をこっそりと「若い者」たち相手に繰り返すのであった。
 実のところ私の友にも親戚にもコリアンがいるんだなんてことは彼には思いもつかないことなのであった。目の前にいる私がいかにうんざりしていようとも、彼にはそんなことが想像できなかったのである。

 だがもし私が「知らない」側にいたらどうだったのか。そこにいるのに見えなくされてる人たち。単一民族でも単一文化でもない国であるのにひとつの民族・ひとつの文化しかないようにふるまう国家がそこにある。かつてアメリカである人が言ったものである。「税金とるならちゃんと政治に参加させよ」と。今現実に税金取られて参政権のない人たちがここにいる。
文化にしても。私が私であることはけして私がそう思うからなのではない。私につながる歴史、私につながる文化の流れ。国なんてどうでもいいのかもしれないが、だからといって一方的に奪い去られていいわけがないではないか。言葉も、名前も、自由にできない。

 ともに生きていくということは、認めあうこと。だがそのためにコリアンたちはまず自己主張しなければならないのである。なぜならばこの国のシステムは彼らのために何もしてくれないからである。私たちがあたりまえのこととして享受しているサービスがことごとく受けられない。
さもなくば異質であることを隠して生きるか。だがそれは自分が自分でなくなることではないのか。認めあうことにはけしてならない。


 このルポルタージュは、何よりも真実をつたえている。コリアンの世界。世界の中のコリアン。そして在日コリアン。あたりまえの、そこにいる人たち。ちがう文化とちがう歴史をもった同じ人たち。
とりわけ在米コリアンや日系アメリカ人との比較、そしてベトナムとの関係は改めて在日の姿を浮き彫りにする。
巻頭の新井英一の写真にひかれて読み始めたこの本であるが、その新井英一の話がこの本の最終章である。
何も言わずに読んで下さい。これはそういう本です。