田川健三 「書物としての新約聖書」



 この本の序文によると、「本書で扱う範囲は、「新約聖書概論」の中の「序説」ないし「補遺」にあたる部分であるのだそうである。それで、ざっと700ページあまりの本である。つくづくこのあたり奥が深い、らしい。
以前、田川さんの書いた「イエスという男」という本を読んで感動したものである。つまり、本当のところイエスという男がどんな人でどういうことをし、どうして処刑されたか、この「イエスという男」を読んではじめて心におちる、というか納得がいったように思えたからである。それで、この本も本屋でみかけて以来、ずっと読みたいと思っていた。ただ大部な本で、しかも決して安いわけではないから、手にいれたのはみかけてから1年以上たっていた。で、読み始めてそこそこに出てくるのが「序説」だ、という話。正直めげた、というかあまりに甘くみていた己を恥じたものである。
 さて、この本はいわゆる通俗的な聖書解説の本ではない。また、「信仰」をかためるための説教の本でもない。そうではなくて新約聖書とはそもそも何なのか、それがどうやって「成立」し、今のものになったか、という問いにこたえようとしているのである。
聖書と言うのは新約で千数百年、旧約ではそれ以上昔に書かれた書物であり、しかも一度に誰かが書いた、という類のものではない。であるからもともと何が書かれていたのかというのはなかなか難しい上、ひとつひとつの文書が書かれた時点ではそもそもひとつの新約聖書というまとまった本はなかったわけである。さらに後世の人たちによっておもに「護教」の観点から修正を加えられている、あるいは意識的に、あるいは無意識に。つまりその時々のキリスト教の考え方によって都合の悪い部分が書き換えられ、あるいは「間違いを訂正」されてきたわけである。
私は信仰をもたない人間であるが、まじめに信仰している人にとってもこれは本当のとこら耐え難いことではないだろうか?もともとは何が書いてあったのか、またそもそも聖書って何?ということ。
かつて宗教改革の時代に「聖書にかえれ」ということがいわれた。当時の教会の勢力が自分たちに都合のいい説教を繰り返すだけで実際の聖書のなかみと矛盾した行動をとっているのだ、というのがその批判のひとつであったと思う。同様に 「信仰」の立場に都合のいいように語られたとすれば、そんなものを大切にする何の価値があるだろうか?真実に耐えないような信仰など無価値であろう。そうではなく、真実を前提にしてこその信仰であり、思想ではないのか。
 日本語で聖書を読もうとすると、注が異様に少ない、というか無いのでなにがなんだかわからないことが多い。といって解説書なるものなどはもっと始末に悪いものだらけである。つまり解説者の立場からの解釈論であって、ほんとうのところ原文にはなにがどういう文脈で書かれていたのかということにこたえてくれないのである。 仮にあなたが「枕草子」の高校生むけの抜粋だけを読んで、それで「枕草子」を読みました、わかりましたなどといったとしたらどうであろうか。ましてやはるかに古く、また政治的で、かつ外国語でかかれてきた本の内容について、特定の宗教の「聖書」だからといって信仰者が語るにまかせる、というのはどうであろうか。
何が正しいか、また正しくないかは結局自分の目で確かめるしかない。それでもなおどうしても解らない、はっきりしないことのほうが多いのではあるが。その点でたしかにこの本は「序説」なのである。これを読んだうえであらためて聖書について学んでほしいといっているのだから。
 そういうわけであるからこの本についてその内容を「要約」などしようとは思わない。そんなことをしてもこの本に書かれた事のもっとも大切なことはすべて伝わらない。であるから、これを読んで関心をもったひとがあれば、ぜひこの本を読んでいただきたい。たしかに大部かつ高価ではあるがしかしこれだけの内容であればそうでなければいけないのである。けしてとっつきのいい本ではないが、充実した内容である。
 最後に通俗的な解説書について一言。まあ面白がって興味本位に読むにはそんなものでもよかろう。私もいくつか持っている。がしかし、それを読んで何かわかったような気になってはいけない。実際、わかるということはこの本が示しているように大変な労力を費やしてはじめて得られるものなのである。べつにそうまでしなくてもかまわない、どうせわかったところで一文にもならないじゃないか、という人もあろうが、「解説書」とはせいぜいその社会的・政治的立場からの「説教書」に過ぎず、けっして真実に近いものではないということをよく肝に命じておいていただきたい。まさに「新約聖書」の中でイエスがそう語っているように。